アパレル販売職の採用業務を通して見えるあれやこれやについて書いてます。

〜アパレル採用担当の窓口から〜

アパレル販売職の採用業務を通して見えるあれやこれや

『遊ぶ金欲しさ』というパンチライン

このところ、企業の人手不足・人材不足に関するニュースがよく上がってきますね。それに対しての「低賃金で働ける奴隷が欲しいだけだろ」というネット内発言もよく見ます。経団連のおじさまたちはGDPのために外国人労働者を欲し、ネットの人たちはSNSの中心で賃金上昇を叫ぶ。

一方自分は人口に対する適正な経済規模や適正な人件費率、分配等々について考えてみようとするものの、基本的なことは何も知らないということに思い至るのでありました…

勉強しよ。

 

ところで、「働く理由は『遊ぶ金欲しさ』」というのが一時期コピペネタで出回ってましたが、最近になってそれのガチツイットを見かけたのでちょっと怖いな、と感じた次第です。

 

なぜ人は働くのか、という命題に対して『遊ぶ金欲しさ』というのはけっして間違ってはいないと思います。ですが、遊ぶ金が欲しいということを第一義にしてしまうと、勤労という利他行為とのギャップがすさまじくなると思うのです。

バランスが取れれば良いのですが、全ての行動の理由を自己中心的なものにしてしまうと与えられたタスクをないがしろにしてしまいやしませんか?

 

なぜ

(自分が住むわけでもない家を建てなければいけないのか)

(自分が買えもしない高額商品に使われる小さなネジを作らなければいけないのか)

(自分が食べるわけでもない料理を作らなければいけないのか)

 こういう考え方でミスが多い仕事の仕方をしている人という存在を見聞きしたこともあり、「遊ぶ金欲しさ」というパンチラインに対して慎重な態度を取ってしまうわたくしです。

時とシチュエーションによっては、家に給料を入れずに遊び歩くお父ちゃん、みたいなこともあるでしょう。「ちょっとアンタ、タカシの給食費が」「うるせぇ!これは俺が稼いだ金だ!文句言うな!」(ひどい妄想)

給料日に、やったー!これで遊べるぞー!遊んだぞー!また遊ぶ金欲しさに頑張って働くぞー!というのはなかなか想像しにくいものです。

 

…なに、「遊ぶ金欲しさ」はそのままの意味じゃないって?わかっとるわかっとる。

 

自分の中では勤労に対して「働いて得た給料(糧)で自分の人生を生きる」という解を持っています。そして「自分の人生を生きる」という行為は利己的であり、かつ利他的なものだと思います。例えば趣味は、経済効果を生みます。人とのつながりを作ります。生きることで他の誰かに影響を及ぼします。つまるところ、望むと望まざるにかかわらず、生きることも働くことも、とても社会的な行為だと思っています。だから「遊ぶ金欲しさ」というチンピラ由来の文言に対して慎重になってしまうのです。

 

最近、知識量や地域、年代によってたった一つの言葉の意味や重みがこんなにも違うのか、ということを経験したので、もしかしたら慎重になるくらいでちょうど良いのかもしれません。

はい、新卒が早々に辞めました。すみません。